ここでは、自分が小説:汚れた英雄、そして北野晶夫と出逢った頃の、「現実の」世界グランプリ(World
Grand Prix、最近はMotoGPと呼ばれる。)を振り返ってみることにする。
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YAMAHA YZR500(OW35)+Kenny Roberts ('78) |
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自分が「世界グランプリ」の存在を知ったのは1982年頃で、何気なく読んでいたオートバイ雑誌に掲載されていた世界グランプリの記事を見かけた
のがきっかけだった。それまでは、そんな世界が存在することすら全く知らなかったのだが、ちょっとしたきっかけからあっと云う間に “コンチネンタル・サーカス”
と呼ばれるその世界にのめり込んでいったことを覚えている。
その当時は世界グランプリがTV中継されることなどは全く無く、海のはるか彼方のヨーロッパ(当時は米国での開催もなかった)
のサーキットを舞台に繰り広げられるレースの様子や結果を、オートバイ雑誌の小さな記事や希に見ることが出来たレースのビデオ等に託すしかなかった。
その当時の世界グランプリは、50cc, 125cc, 250cc, 350cc, 500cc,
そしてサイド・カーという、全部で6クラスものカテゴリーが存在し、日本人ライダーを含む多くのライダーが活躍していた頃であった。
現在(2020年時点)もMotoGPで活躍するMotoGPライダー:Valentino
ROSSI(ITA)の父:Guratiano
ROSSIや、2000年代前半までMotoGPに参戦していたプライベート・チーム、Team ROBERTSの監督:Kenny
ROBERTS(Senior)等も、この時代のライダーである。
1981年、この年の500ccクラスはSUZUKIにとって黄金の1年であった。
1978年から1980年にかけてYAMAHA
YZR500に乗るアメリカ人ライダー “KING”
Kenny ROBERTSに世界タイトルを奪われ続けたSUZUKIは、1979年のRGB500/XR27、翌1980年のRGB500/XR34に代わ
り、1981年に「打倒KING&YAMAHA」を掲げて開発したRG-Γ500/XR35をシーズン初戦から投入、イタリア人ライダー:Marco
LUCHINELLIのライディングによって4年ぶりに個人タイトル、そしてメーカー
タイトルをYAMAHAから奪還することに成功した。
その翌年('82年)もSUZUKIはさらに熟成が進められたRG-Γ500/XR40とFranco
UNCHINI(伊)の組み合わせによって2年連続でメーカーおよび個人タイトルの獲得に成功した。
この年のRG-Γ500/XR40の強さは圧倒的で、HONDAの3勝、YAMAHAの2勝を大きく上回る11戦6勝と云う強さで年間チャンピオンを獲得している。(ちなみに残りの1戦はワークス・ライダーのボイコットによりプライベート・ライダーが優勝し
た。)
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SUZUKI
RG-Γ500(XR35)+Marco Lucchinelli('81) |
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SUZUKIの1980年型ワークスマシン:RGB500/XR34に搭載されたスクェア4(2気筒×2列)エンジンは、最高出力こそ並列4気筒のYAMAHA
YZR500を上回ったものの、特に足周りの熟成が最大の課題であった。
“KING”
Kenny+YAMAHAのコンビからタイトルを奪還するためには、Kennyのライディングを上回るコーナリング性能の実現が急務であった。この課題を克服するために、「少・小・軽・美」をスローガンに掲げ新たに開発された1981年型ワークス・マシン:RG-Γ500/XR35は、前年のXR34と比較しエンジン単体が5.3kg、車体(鉄フレーム)も10kg以上の軽量化が計られ(その後のアルミ・フレーム化でさらに3.5kgの軽量化が計られた)、この軽量化のおかげで特にコーナリング性能において格段の進歩を遂げたと云われた。
SUZUKIは、このマシンとMarco
LUCHINELLIと云う組み合わせによって、 “打倒KING”
の悲願を達成し、1977年以来4年ぶりの世界グランプリ500ccクラス王者に返り咲いたのである。
その一方で、SUZUKIに王者の座を奪われてしまったYAMAHAも、並列4気筒+ピストンバルブと云うエンジンの性能限界と、SUZUKIのスクェア4エンジンの高出力に対抗するために、新たにスクェア4気筒とV型4気筒の2種類のエンジン開発に着手していた。そして1981年シーズン当初から投入されたのは、SUZUKIと同じエンジン形式であるスクェア4エンジンを搭載したYZR500/0W54であった。
しかし、ヤマハにとって初となる2軸スクェア4エンジンを採用した0W54は、最高出力こそ135psに達するものの、大きく、そして重くなったエンジンが操縦性に大きく影響し、OW54はKenny
ROBERTSのライディングで開幕戦から2連勝を飾るものの、その後はトラブルに見舞われ続け、結局この年のKennyのランキングは3位にとどまってしまう。
翌1982年になると、YAMAHAは6kgもの軽量化を果たしたスクェア4エンジンを搭載するOW60に加え、スクェア4と平行して開発が進められてきたV型4気筒エンジンを搭載したOW61を第2戦から実践投入する。
そかしこのV型4気筒マシンも特異なフレーム構成を持つこともあってマシンの熟成に時間を要し、結局この年もSUZUKI+イタリア人ライダーから王者の座を奪い返すことはできなかったのである。しかしそれでも
“KING”
Kennyがなかなか熟成が進まないV型4気筒マシンOW61に乗り続けたのは、翌シーズン以降のV型4気筒の活躍を見据え、開発を進めるためとも云われたのだる。
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HONDA NS500+Freddie SPENCER('82) |
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1970年代半ばから毎年繰り広げられていたSUZUKIとYAMAHAの壮絶なチャンピオン争いに対して、HONDAは1977年に世界GP復帰を宣言
した後、楕円ピストン採用した4ストロークV型4気筒32バルブをエンジンを搭載したNR500-0Xで1979年のイギリスGPから世界GPへの復帰を果たしていた。
しかし、1960年代に活躍した4ストローク・エンジンの時代は既に終焉を迎えており、その画期的な4ストロークマシンは、優勝はおろか1ポイントすら獲得出来ずにいた。2ストローク・エンジンの倍の回転数で走るエンジンは常にトラブルを起こし完走もままならないほどだったのである。
HONDAは4ストローク・マシンでの限界に見切りをつけ、初の2ストローク・マシン:NS500を'82年に世界GPに投入する。
NS500に搭載された2ストローク・エンジンは、NR500が世界グランプリに本格的に投入された'80年末にはHONDA内で開発が始められようとしていた。このエンジンは、他メーカ−がこぞって4気筒を採用しているのに対して、モトクロッサーのエンジンをベースに開発が進められた、非常に軽量でコンパクトなV型3気筒(‘L型’
と云っても良い)を採用していた。そしてそのV3エンジンの軽さと低速域での高トルク、さらにそのコンパクトなエンジンのメリットを
最大限に活かした空気抵抗の小ささを武器に、NS500は他メーカーのワークス・マシンと互角以上の戦いを見せることになる。
1981年初頭から本格的に開発が始まったNS500の実戦投入は、国内では'82年3月に開催された鈴鹿ビッグ2&4、世界GPでは同年3月28日の第1戦アルゼンチンGPだった。
この年、HONDAはNS500をアメリカ人ライダーのFreddie SPENCER、前年までNR500を走らせていた片山敬済、そしてSUZUKIから移籍したMarco
LUCHINELLIの3人のライダーに託した。そしてNS500/NS2Aは
この年世界GP初参戦にも関わらず3勝を記録、特に類い希なライディング・センスを持ち合わせたFreddie
SPENCERがランキング3位獲得と云う活躍を見せる。
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King KENNY vs First
FREDDIE('83) |
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そして迎えた1983年。
この年、熟成が進められたHONDA
NS500/NS2Bと、やはり同じように熟成が進められたYAMAHAのV型4気筒マシンYZR500/0W70によって繰り広げられた壮絶なバトルは、この年の全12レースを
“FIRST” Freddieと “KING”
Kennyの2人のアメリカン・ライダーによって優勝を6勝ずつ分け合うと云う結果を残した。
“FIRST” Freddieと “KING”
Kennyとのチャンピオン争いは、9月4日に開催された最終戦サンマリノGPが現役最後のレースとなったKennyが優勝を飾るものの、わずか2ポイント差でFreddieが年間チャンピオンを獲得すると云う形で終止符が打たれた
。この2人の争いはおそらく世界グランプリの歴史上最も激しいチャンピオン争いだったと云っても決して過言ではないだろう。
そしてその裏では、前年の覇者SUZUKIがHONDAとYAMAHAの台頭に押され、この年ついに1勝も挙げることが出来ずじまいで、やがては世界グランプリからのワークス撤退を余儀なくされることになってしまうのである。
小説「汚れた英雄」は、この当時からさらに20年以上も時代を遡った、1950年代末から60年代後半までの世界GPを舞台に描かれた小説である。
小説の舞台となった当時は、イタリア/MV
Agustaを始めとするヨーロッパ勢の2輪メーカーがひしめき合う世界グランプリと云う舞台に日本の2輪メーカーが競ってチャレンジし、やがて世界を席巻していく
と云う、日本のオートバイ・メーカーにとってまさに黄金の時代であったと云えるだろう。
物語は、日本のオートバイ・メーカーの驚異的な躍進の中で、日本人でありながらプライベート時代のYAMAHA
YA-1を除き日本のオートバイメーカーのマシンには一度も乗らず、イタリア/MV
Agustaを始めとするヨーロッパ・チームのマシンを駆って世界GPを駆け抜け、数々のタイトルを獲得していく主人公北野晶夫の姿を描いている。
その一方で、晶夫は、世界最速のライダーと云う地位と同時に、危険な匂いの漂う世紀のプレイボーイとして社交界にその名を響かせながらこの時代を生き抜き、そしてあまりにもあっけなくその生涯を終えるのである。
もし、晶夫がROBERTSやSPENCERたちと走っていたら、いったいどんなレース展開をしたのであろうか...。 |