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第2回浅間火山レース(1957年10月19日) |
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北野晶夫は1939年(昭和14年)に東京都杉並区で生まれる。
幼い頃に父親、そして母親を戦争で亡くした晶夫は、十条で自転車屋を営む母方の伯父に引き取られる。しかし伯父からは冷たく扱われ、孤独な少年時代を送っていた。
高校に通う頃までオートバイにはまったく関心の無かった晶夫だったが、ふとしたきっかけから伯父が営む自転車屋でオートバイ整備を手伝うようになる。やがでオートバイに熱中し、叔父の長男の支援を受けて参加した第1回全日本モーター・サイクル・ロードレース(通称:第1回浅間火山レース)を皮切りに、モーター・サイクル・レースの世界にのめり込んでいく。
晶夫は、オートバイ整備の技術力を伯父から認められ大学進学を目指すことになるが、オートバイ・レースに夢中になりすぎて大学受験に失敗してしまい、その晶夫を罵り続ける伯父を殴って伯父の家を飛び出す。
叔父の家を飛び出した晶夫は、大学の学費を稼ぐために在日米軍将校であるマクドナルド家のドッグ・ボーイとして住み込みで犬の世話のアルバイトをしながら、同時に2輪や4輪のレースに出場すると云う浪人生活を送っていた。中古のYAMAHA
YA-1を改造して第2回浅間火山レースに出場したのもそのころであった。
ある時、晶夫はマクドナルドの所有するフェラーリを駆って米軍基地内で行われた4輪のアマチュア・レースに出場する。そして偶然そこを訪れていた元世界GPライダー、ロベルト・ヴィアンキに出逢う。ヴィアンキが元世界GPライダーであることに気がついた晶夫は、「二輪は僕の命です。」とモーターサイクルに対する自分の熱意をヴィアンキに伝えたことがきっかけとなって、ヴィアンキのプライベート・テストを受けるチャンスを得る。そして、プライベート・テストで自ら用意したYA-1レーサー、さらにヴィアンキから与えられたマシンを見事に乗りこなす姿をヴィアンキに見せた晶夫は、その才能を認められ1年後の渡米を約束される。
ドッグボーイとしてマクドナルド家に住み込み、マクドナルド夫人から直々に教わった英語力を生かして慶明大学に入学した晶夫は、大学に通いながらオートバイ・レース活動を続け、第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースで初優勝を飾る。その一方で、大学に通いながらその細っそりとした強靱な肉体と女が息を止めるほどの天性の美貌を武器にして慶明大学に通う政財界の令嬢達の相手をし、やがて莫大な財産を得るようになる。
そして、ロベルト・ヴィアンキのテストを受け合格となった1年後、晶夫は約束通りヴィアンキの招待でロスに渡米する。
ヴィアンキ・チームの一員となった晶夫は、世界グランプリへの参戦を狙うヴィアンキ・レーサーの開発とライディングの練習に明け暮れると同時に
、様々な女と出逢い、そして女達の相手をしていくうちに、いつの日かライダーとしてではなく危険な匂いの漂うプレイボーイとして社交界にその名が知れ渡るようになっていく。
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1962年マン島T.Tを走るMVAgusta500+Gery
Hocking(RSA) |
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ヴィアンキ・チームは、会社の方針で突如世界グランプリへの参戦計画を中止する。しかし晶夫は、ヴィアンキの許しを得てイタリアの名門チームMV
Agustaのテストを受ける 。
MV
Agustaのテストに合格し契約ライダーとなった晶夫は、1960年5月の世界グランプリ第1戦フランス・グランプリの350ccクラスにMVAgusta
350を駆り初出場、見事にデビュー・ウィンを飾る。
その年の晶夫は、契約上はイタリア人第1ライダーの ‘引っ張り役’
とされていたにも関わらず、圧倒的な速さで350ccクラスの世界チャンピオンを手中に納め、プレイボーイとしてだけでなくライダーとしてもその名を世界的に知らしめるようになる。
晶夫は翌年もMV
Agustaと契約を結び、公式にはプライベート・ライダーとして世界グランプリに参戦する。そしてこの年も圧倒的な速さで350cc、そして500ccクラスの世界タイトルを獲得する。
しかしその一方で、ホンダを始めとする日本のオートバイメーカーが次々と世界グランプリへの参戦を開始し、MV
Agustaを走らせる晶夫は次第に追われる立場に転じていく。
日本のオートバイメーカーがレース毎に改良された新しいマシンを次々と投入するのに対して、晶夫は開発がストップし性能面で劣るMV
Agustaで戦い続けるものの、日本のメーカーのマシンの進化は凄まじく、MV
Agustaは彼等の台頭によって世界グランプリからの撤退を余儀なくされてしまう。
MV
Agustaが世界GPから撤退した後、晶夫はモリーニを始めとするヨーロッパの様々なメーカーのマシンで世界グランプリへの参戦を続け、いくつものタイトルを獲得していく。同時に、社交界の華麗な女性達とスキャンダルを次々と重ねながら、女性達から有り余る財産を手に入れ続け、世界的なプレイボーイとしての地位も固め続けていく。
1967年。
2輪では再びMVAgustaと、また4輪では前年から本格的に参戦を開始したフォードと契約した晶夫は、フォード・チームの引っ張り役としてル・マン24時間耐久自動車レースに出場する。
晶夫はその耐久レース中に、濃霧の中で起きた多重クラッシュに巻き込まれて即死、立ち上る炎に包まれた晶夫はあまりにもあっけなくその人生の幕を閉じるのであった。 |