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〜 私設 「北野晶夫の世界」 〜

 

- 小説「汚れた英雄」に登場する人物 -

 


 

登場人物名

 

田中 健二郎 (たなか けんじろう)

 

 

 

 

 

最初の登場頁

 

第T巻 野望篇 P.17

 

 

 

 

 

小説上の人物像

 

第2回浅間火山レースのライト級にホンダ工場チームのライダーとして登場する、その後晶夫が世界グランプリを転戦するようにな り、ヨーロッパのサーキットで何度か顔を合わせる。

 

 

 

ホンダもベンリィ改のC80Z単気筒OHCエンジンを積み、全出場車の中でただ一つ五段ミッションをつけた工場チームを繰り出していたが、ヴェテラン田中健二郎は250ccレースに廻っているので、まだピットに姿をみせていない。

 

※田中健二郎は第2回浅間火山レースには出場していない。(1959年に開催されたの第3回浅間火山レースの耐久レース ライト級に出場している。)

 

 

(第T巻 野望篇 P.17)

 

 

 

そこで見たのは、ブラウンやマン島の怪我が癒えたフィリスやレッドマンたち外人勢に混じっている、ホンダの海外派遣第二陣の日本人ライダーたちであった。

アサマで晶夫が憧れの瞳で見つめたヴェテランの田中健二郎、それに高橋国光もいる。懐かしさにつられて晶夫はパドックに走り寄る。

「健さん...それに国さん...」

「よお、誰かと思ったぜ」

「しばらく...」

剽軽な田中と、まだ当時は子供っぽかった高橋は手をあげた。

「どう、マシーンの調子は?」

晶夫は尋ねた。

「ライヴァル・チームのお前さんに本当のことがしゃべれるかよ。この薄ら馬鹿ー」

田中はニヤニヤ笑いながら、毒気を含まぬ口調で言い

「何しろ、ダートなら自信が無いことも無いんだが...どう走るか教えてくれよ」

と付け加える。

 

 

(第W巻 完結篇 P.59)

 

 

 

悲劇は2周目に起こった。前回の西ドイツGP 250ccにGP初出場で3位を得た田中が凄まじい追い上げを見せ、たちまち2位に上がってきたのだ。
晶夫としては、田中に抜かれたら、チームの命令通りにウッビアリを勝たせるわけにはいかなくなる。

 

晶夫は、背後に迫ってきた田中を見て、リースム・ストーンの直角に近い右コーナーで、田中のコーナリング・ラインに自分のマシーンを寄せ、普段よりも早目にブレーキングした。

コーナーの立ち上がりで差をつけようとしたのだ。

追突を避けて、カブト虫のヘルメットの田中もブレーキングした。そのヘルメットは浅間時代に、生沢徹が父の朗画伯が描いたものを送ったもので、カブト虫は手足をもぎ取られてもたくましく生きることのシンボルであった。

晶夫は深いリーン・イン・スタイルで、思い切り加速しながらコーナーを抜けようとした。

ホンダのカン高い排気音がたちまち背後に迫ったのを聞いて、晶夫は思わず首を後ろにねじ向けた。

そのとき、田中のマシーンは激しく左に滑った。さすがの田中も、ニュー・エンジンのあまりにも急激な立ち上がりを計算しきれずに、オーヴァー・スピードになったのだ。そこにもってきて、運悪くエンジンが焼き付けを起こし、激しいエンジン・ブレーキが掛かった。太陽熱で溶けかけていたタールがタイヤにこすられて溶けた。

 

 

(第W巻 完結篇 P.85)

 

 

 

 

 

 

実際の人物像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1934年(昭和9年)1月3日生まれ、佐賀県出身。

 

中学を卒業後、オート・レースの世界へ進み数多くのタイトルを獲得、“逆ハンの健二郎”の異名を持つほど活躍するものの、1957年 (昭和32年)9月に起きた八百長レースに関与していたとされ、選手資格を剥奪され事実上追放となってしまった。

 

その後、浜松の寿司屋で働いていた時に、寿司屋を訪れた本田宗一郎らと出会ったことがきっかけとなり1958年(昭和33年)にホンダに入社する。

しかし、その年の8月に開催された第1回全日本モーターサイクル・クラブマンロードレースには、プロ・レーサーから引退後1年を経過していないと言う理由で出場を拒否され出場できなかった。

翌1959年 (昭和34年)8月に開催された第3回浅間火山レース(第2回クラブマンロードレースと併設)の耐久レースに、ホンダ初の4気筒マシンRC160で出場し第4位に入賞した。

 

世界グランプリデビューも同じ1959年 (昭和34年)で、翌1960年(昭和35年)7月24日に開催された第5戦西ドイツGPの250ccクラスにRC161で第3位に入賞、初出場ながら日本人として始めて表彰台に上った。

しかし、第6戦アルスターGPの250ccクラス決勝レース中に転倒、その際に折った右足の複雑骨折が原因でレーシング・ライダーとしての生命を絶たれることになる。自著「走り屋一代」では、この時の転倒はミッションの焼き付きが原因と述べている。

 

 

その夜、晶夫は田中を見舞った。

田中は、意識は回復してはいたが、重傷のために、面会時間は3分に制限され、私語を交わすことも許されなかった。

田中は苦痛に脂汗を流していた。いつもの田中なら、たとえ医師や看護婦が見張っていようとも冗談を飛ばすところだが、今度はそんな気分になれないらしい。

晶夫はタバコに火をつけ、田中の唇に差しこんだ。田中が吸い終わると、頭を下げて病室を出る。

医者も出てきた。晶夫は

「どんな具合です?」

と、尋ねた。

「右足首の近くの骨はバラバラだ。向こう臑もひどくやられている。左足にもヒビが入っている。背骨はギプスで固められるが、右足は切断(Cut off)しないと駄目でしょうな。」

医師は言った。

「切断!」

「もう少し検査はしてみますがね。」

医師は肩をすくめた。

控室からホンダの河島マネージャーが出てきた。晶夫は

「切断ですって?」

と、呟く。

「切断だって! まさか! 切開(Cut)じゃないのか」

「いや、医者は切断と言いましたよ」

「そいつはひどい。こっちはてっきり切開と言う意味だと思ったんで、健さんと相談して手術オーケイの返事をしたんだ。さっそく取り消す。ともかく、本社からうちの医者が来るまで、手術を待ってもらうんだ。」

河島マネージャーは医務室に駆けだした。

これは後日談になるが、なんとか右脚を切断することを勘弁してもらった田中は、10月15日に、脚の傷が癒えぬまま担架に乗せられて、イタリーGPを終えたホンダ・チームと共に空路帰国したが − 、品川のS医大付属病院に入院するとモルモットがわりにされ、矢崎外科に移って、切断しないままに自宅療養できるようになって3ヶ月後に退院した。

現在も彼がビッコを引いているのは、その事故のなごりだ。

 

 

(第W巻 完結篇 P.89)

 

 

その後はホンダ国内のファクトリー・チームのコーチ役を務める。これは「健二郎学校」とも呼ばれ、生沢 徹等1960年代の名ライダーを数多く生むことになる。

1964年 (昭和39年)、ホンダに在籍中ながら、日産ブルーバードで第2回日本グランプリに出場しクラス優勝を果たす。

翌1965年(昭和40年)には完全に4輪に転向、同じホンダに所属した高橋国光、北野 元を連れて日産ワークス・チーム(追浜ワークス)に移籍する。その後も、タキ・レーシングに所属したり、自らのチームを立ち上げる等して国内レースで活躍する。

 

 

回復後、ホンダのコーチになった田中は、64年シーズンから日産の4輪チームのコーチ兼キャプテンとして、日本一のテクニシャンぶりを発揮し、タキ・チームに移った今も、レースというものを知り尽くした実践テクニックは一段と冴えている。

 

 

(第W巻 完結篇 P.91)

 

 

ドライバーを引退した後はレース解説者に転身。テレビ中継や雑誌記事などで、辛口の批評を展開する。高橋国光、北野元、黒沢元治など当時の主だったドライバーはほぼ全て弟子筋であるため、歯に衣着せぬ本音を言えるのが田中ならではの魅力だった。

 

2007年(平成19年)12月29日 病没

 

 


 

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最終更新:2014/01/28

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