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〜 私設 「北野晶夫の世界」 〜
- 小説「汚れた英雄」に登場する人物 -
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登場人物名 |
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田中 健二郎 (たなか けんじろう) |
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最初の登場頁 |
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第T巻 野望篇 P.17 |
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小説上の人物像 |
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第2回浅間火山レースのライト級にホンダ工場チームのライダーとして登場する、その後晶夫が世界グランプリを転戦するようにな り、ヨーロッパのサーキットで何度か顔を合わせる。
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実際の人物像 |
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1934年(昭和9年)1月3日生まれ、佐賀県出身。
中学を卒業後、オート・レースの世界へ進み数多くのタイトルを獲得、“逆ハンの健二郎”の異名を持つほど活躍するものの、1957年 (昭和32年)9月に起きた八百長レースに関与していたとされ、選手資格を剥奪され事実上追放となってしまった。
その後、浜松の寿司屋で働いていた時に、寿司屋を訪れた本田宗一郎らと出会ったことがきっかけとなり1958年(昭和33年)にホンダに入社する。 しかし、その年の8月に開催された第1回全日本モーターサイクル・クラブマンロードレースには、プロ・レーサーから引退後1年を経過していないと言う理由で出場を拒否され出場できなかった。 翌1959年 (昭和34年)8月に開催された第3回浅間火山レース(第2回クラブマンロードレースと併設)の耐久レースに、ホンダ初の4気筒マシンRC160で出場し第4位に入賞した。
世界グランプリデビューも同じ1959年 (昭和34年)で、翌1960年(昭和35年)7月24日に開催された第5戦西ドイツGPの250ccクラスにRC161で第3位に入賞、初出場ながら日本人として始めて表彰台に上った。 しかし、第6戦アルスターGPの250ccクラス決勝レース中に転倒、その際に折った右足の複雑骨折が原因でレーシング・ライダーとしての生命を絶たれることになる。自著「走り屋一代」では、この時の転倒はミッションの焼き付きが原因と述べている。
その後はホンダ国内のファクトリー・チームのコーチ役を務める。これは「健二郎学校」とも呼ばれ、生沢 徹等1960年代の名ライダーを数多く生むことになる。 1964年 (昭和39年)、ホンダに在籍中ながら、日産ブルーバードで第2回日本グランプリに出場しクラス優勝を果たす。 翌1965年(昭和40年)には完全に4輪に転向、同じホンダに所属した高橋国光、北野 元を連れて日産ワークス・チーム(追浜ワークス)に移籍する。その後も、タキ・レーシングに所属したり、自らのチームを立ち上げる等して国内レースで活躍する。
ドライバーを引退した後はレース解説者に転身。テレビ中継や雑誌記事などで、辛口の批評を展開する。高橋国光、北野元、黒沢元治など当時の主だったドライバーはほぼ全て弟子筋であるため、歯に衣着せぬ本音を言えるのが田中ならではの魅力だった。
2007年(平成19年)12月29日 病没
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最終更新:2014/01/28 |