211-02-3-21

〜 私設 「北野晶夫の世界」 〜

- 第4回富士登山レース -

 

【 第1回大会の模様 】

1953年(昭和28年)7月12日


 

 

富士宮市観光協会の主催、静岡県観光協会と毎日新聞社の後援、そして富士宮市軽二輪自動車協会の協賛によって、第1回富士登山レース (正式名:第1回富士登山軽オートバイ競争大会)は、7月12日に開催された。

 

主催者の性質から言って、このレースはどちらかと言うと富士山の山開きを記念して開催された観光客誘致が目的であった。

大会には全国から約150を超えるエントリーがあり、実際にスタートしたのは99台、そのうち完走は78台であった。

 

大会の規定は以下のように定められた。(抜粋)

 

 

1. 日 時 

7月12日(雨天順延)

2. 集合場所

午前7時 富士宮駅前

3. 競技場

富士宮市浅間神社より富士山表口2合目下(27km)

4. 参加資格規定

 

(1)

国産2輪車にして4衝程(サイクル)機関に在りては150cc以下、2衝程(サイクル)機関に在りては90cc以下とする。尚、該車種は届出証を有する車輌なる事。

 

(2)

出場選手は運転免許証を有する者に限る

 

(3)

車輌は実用標準車にして改造車でない事

 

(4)

警報機を備付する事

 

(5)

防音装置は該車輌の標準型使用の事

 

(6)

燃料は当方の指定せるものを使用の事

 

(7)

気筒内径はスタンダードより30/1000以内の車輌である事

 

(8)

右条項に違反したる場合は失格する

5. 申込要項

車輌種類、年式、選手氏名、住所、年令、ハガキ其の他口頭にても可

6. 参加料

無料 但し旅費、宿泊料は各自負担

7. 競技方法

 

(1)

午前7時 選手集合 富士宮駅前

 

(2)

同8時 大会開会式

 

(3)

同9時 競技開始

 

 

 イ、浅間神社西門より一分間隔

 

 

 ロ、27キロのタイムレース

 

 

 ハ、出走順位は申込受付順

 

 

 ニ、伴走は認めない

 

(4)

 午後5時 賞品授与

 

(5)

 同5時30分 大会閉会式

8. 賞品

 

メーカー賞

1位のメーカーに商品、賞状授与

 

1位

優勝杯 優勝旗、副賞金5万円

 

2位

賞品、副賞金2万円

 

3位

 同1万円

 

4位

同7千円

 

5位

同5千円

 

6位

同3千円

 

7位

同2千円

 

8位

同1千円

 

9位

同1千円

 

10位

同1千円

 

 

 

 

   参加者全員に参加章贈呈

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コースは、富士宮市の浅間神社の裏手となる表富士宮登山口から海抜1,600mの富士山2合目までの27kmの区間で設定され、大小100あまりのコーナーがあった。

スタート直後は平坦なコースが続くが次第に上り坂となり、勾配は1/10〜1/5程度が連続する。道路面は小砂利混じりの土面で、途中の1合目までは比較的固まった乾燥路面が続き、後半は砂利が少ない湿った土面で、比較的走りやすいコースだったと言われている。

また、大会執行部の手によってコースの整備が行われ、またコースの交通制限や整備などに警察も積極的な協力があり、レース開始後は、自動車の通行が禁止され万全の安全対策が施された。また標識と警備要員の配置などで安全が確保され、事故などの発生もなかった。

 

当日午前7:00に富士宮駅前に集合した出場者達は、市内を行進した後浅間神社西門のスタート地点に到着、午前8:00からの開会式の後、午前9:00から1分間隔でスタートするタイム・トライアルで争われた。

当日の天候は、午前中はあいにくの空模様で山腹一帯は時折ガスに包まれたが、幸いにも雨は降らずに済み、夕方には日差しが見えた。

 

先述のように、スタートしたのは99台、そのうち完走は78台であり、トラブルによるリタイアは比較的少なかったと言える。

登坂レースであるが故に、一番懸念されたエンジンのオーバーヒートによる焼き付きであったが、当日の天候が幸いして登れば登るほど気温が下がり湿度が高く、エンジンへの負担が軽減されトラブルが発生しにくかったのである。

 

 

決勝結果は以下の通りである。

 

 
順位 選手名 出身地 メーカー タイム 記事
1 長岡 勝 沼津 オートビット 36' 14"  
2 中島 信義 沼津 ポニーモナーク 37' 06"  
3 杉山 義雄 沼津 ホンダ 37' 08"  
4 寺田 五郎 浜松 ポインター 37' 18"  
5 豊田 弘 三島 ミシマ 38' 10"  
6 岡田 孝一 蒲原 ポインター 38' 30"  
7 高橋 義郎 三島 ミシマ 38' 40"  
8 中条 実 東京 ホンダ 39' 05"  
9 高野 栄一 清水 ホンダ 39' 08"  
10 石井 光雄 沼津 ミシマ 39' 29"  
11 松田 昭平 吉原 オートビット 39' 45"  
12 北条 正夫 小島 ホンダ 40' 00"  
13 五十嵐 隆 蒲原 ポインター 40' 13"  
14 佐野 卯三吉 東京 ホンダ 40' 14"  
15 小城 下利夫 沼津 スミタ 40' 57"  

 
57 山下 林作   スズキ ダイヤモンドフリー 58' 59"

バイクモーター

 
(失格)     晶和 34' 55"

他合計4台

 

 

 

トップでゴールした長岡選手のタイムは36' 14"で、区間距離27kmから平均時速は44.7km/hとなる(モーターサイクリスト誌(1953年10月号の記述では46.8km/hとある。)が、4サイクル150ccもしくは2サイクル90cc以下という排気量からすれば、当時の性能としてはかなりの高速であったと言える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出場規定では「標準車」とされており、多数の出場車が市販のままだったが、一部で改良が施された車種が見受けられた。これは「標準車」の定義が曖昧であったことと、それを検査する側も明確な判定基準がなかったためで ある。

ギア比の変更やマフラーの構造変更などは「標準車」の範囲と解釈された一方で、晶和SHは3台が公式記録上の1位を上回る34〜36分台でゴールしたにもかかわらず、照明用のバッテリーを外していたという理由で失格扱いとなるなど、車検にもかなりの問題が生じた。

晶和側の主張は

 「開催前に改造範囲を確認し許可を得ていた。」

 「事前の車検でも問題を指摘されなかった。」

 「他にもバックミラーを外したりした出場者があった」

と主張したが、最終的には「車輌審判については係の判定に異議を申し立てない」と言う条件を盾にして主催者側の連絡ミスをもみ消したとも言える。

 

また、今回のレースでは出場マシンを「4衝程(サイクル)機関に在りては150cc以下、2衝程(サイクル)機関に在りては90cc以下」と規定 されていたが、結果から観れば「4サイクル150ccマシンの独断場で、いわゆる「バイクモーター」クラスの最上位は57位と言う結果だった。

この結果はこのレース以降、衝程(サイクル)に寄らず排気量でクラス分けをする必要性を明確にした結果となり、第2回大会では排気量の拡大と合わせて、軽二輪とバイクモーターの2クラスに分けられることになった。

 

 


 

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(最終更新:2017/03/14

 

 

 

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