最終更新:2010/01/29

 

〜 私設 「北野晶夫の世界」 〜

 

- 小説に登場する二輪メーカー -

 

 

【 モナークモーター(株)/モナーク工業(株) 】

1950年(昭和25年)創業 〜1961年(昭和36年)倒産 (1950-1961 モナーク工業)

 


 

2回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間火山レース)の出場メーカのひとつとして記述されている。

パドックには、ホンダ、ヤマハ、トーハツのファクトリー・マシンのほかに、現在は名前も消えてしまったようなモナーク、エーブスター、ミシマ、メグロ、晶和、ライラック、ポインター、ホスクなどの個人出場日本車が並んでいた。のちのクラブマン国際レースとちがって、国産車だけしか出場することが出来ない。スズキ・コレダのファクトリーは不出場であった。

※:

モナークは、第2回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間火山レース) には出場していない。

1955年に開催された第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間高原レース )のライト級にモナークSP-1が出場しているのみ。)


 

目黒製作所の社長村田延治の娘婿である村田不二夫が1950年(昭和25年)に創業した会社。

 

村田不二夫は、目黒製作所の本社の車体工場に勤務する傍ら専務だった桑原茂道と共にオートレースに出場していた。しかし桑原が船橋サーキットで行われたレース中に転倒し死亡する事故が起き、メグロはオートレースへの参戦を取りやめる。

しかし、不二夫はオートレースへの参戦をあきらめる事が出来ず、その思いを達成すると云う大胆な目的のために独立を決意し、義父であり社長でもある村田延治にその旨を申し出る。

延治は、不二夫自身がオートレースに出場しないことを条件として、それを受け入れた。

 

 

ポニーモナーク(1952年)と村田不二夫

 

不二夫は戦争によって焼失してしまった目黒製作所旧大森工場跡地を延治から借り受けて工場を建て「モナークモーター」を1950年(昭和25年)に創業する。

社長に赴任した野村房雄は、家業であった映画機材の製造をする傍ら、オートバイに強い興味を持っておりベロセットに似せたエンジンの試作をするほどであった。

そして、かねてよりオートレースで親好のあったた野村と不二夫が意気投合し、共同でモナーク・モーターを立ち上げたのである。

 

モナークが最初に開発したのは、村田が試作した142ccエンジンを搭載した「インターナショナルNM-1型」と、メグロがエーブモーターからの発注により開発し、その後外販を始めた4サイクル単気筒OHV 149ccBHK」エンジンを搭載する「ポニーモナークPM-3型」であった。

なお、「インターナショナル」は野村の映画機材製造会社の名前からとったものである。

 

やがてメグロが小型エンジンの製造を中止したため、ポナークのオートバイは野村が設計するエンジン、いわゆる「インターナショナル型」のみとなる。

野村が作った初期のモナークエンジンは、ベロセットの模倣エンジンだったが、それは外国製エンジンに比べて性能面で遅れをとっていた。

そのため、野村はそのエンジンを改良し、カムシャフトをエンジンの高い位置に配置しプッシュロッドを短くすることでメカニカル・ロスを軽減し性能を著しく向上させた。

また、インターナショナルNM-1型は発売当初の149ccから190ccまで排気量が拡大された。これは道交法の改正により、軽二輪の排気量が変更されたことに対して、ボアを広げて排気量を拡大したためであった。この190ccエンジンを搭載したインターナショナルNM-1の評価はとても高く、ユーザに喜ばれたと言う。

 

野村と村田は、1953年(昭和28年)3月に開催された名古屋TTレース(正式名は「全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード」)に、野村エンジンを搭載したインターナショナルNM-1型を3台出場させるが、どのマシンも車体が弱く勝負にならなかったと言う。

 

190ccエンジンの次に造ったのは248cc単気筒OHVエンジンで、これを搭載した「モナークインターナショナルNM-1型」(インターナショナルの前に「モナーク」が付与された)が1953年(昭和28年)12月に発売された。

モナークインターナショナルは、ロータリー式ミッションが採用されていた。そのミッションは、シフトペダルを踏み込むだけでトップからニュートラルに戻すことが出来る、またニュートラルに戻ったことがわかるようにパイロットランプを点灯させるものだったが、この方式はモナークが最初に採用し、その後メグロをはじめとする各社が追従し今でも多くのビジネス・バイクに採用されている。

 

モナークはこの「モナークインターナショナルNM-1型」で1954年(昭和29年)7月に開催された第2回富士登山レースの250ccクラスに出場し、今度は全車が第1位、2位、3位、4位、そして7位入賞を果たすと云うすばらしい結果を残した。(注:モナークM3(単気筒OHV 246cc)が同年3月に発売されており、富士登山レースはこれで出場した可能性がある。)

 

しかしその頃、国内では乱立したオートバイ製造業界が自然淘汰の時期に突入していた。

日本では、朝鮮戦争の特需ブームが去り不況に傾くときであった。

 

 

2回浅間火山レース(ライト級)に出場したモナークSP-1

 

オートバイがもっとも売れている頃は販売店が札束を抱えてメーカーまで押しかけ、製品が出来るのを待って買い取っていったほどであったが、そのうちに現金の代わりに手形が登場した。

中には銀行取引が本当にあるのかわからないような代理店の手形で品物を納めたりすることもあり、モナークに限らず多くのメーカーが不渡りになるとも知らずにその手形と交換に製品を渡し、やがて不渡りとわかり窮地に追い込まれると云うことが非常に多くなり、モナークもその一つであった。

モナークモーターも、不渡り手形の被害に遭い、5000万円もの借金を抱えて1954年(昭和29年)に倒産に追い込まれてしまった。

 

その後、親会社とも云える目黒製作所の社長村田延治が200万円を投資する形で、「モナーク工業」という会社を再度立ち上げる。

翌年の1955年(昭和30年)11月に開催された第1回浅間高原レースのライト級(250cc)に、新生モナーク工業は同年6月に発売した「モナークF1」をベースとした、SP型アールズ・フォークとテレスコピックの2種類のフロント・フォークをそれぞれ採用した2台のレース専用マシン「SP-1」で出場し、第4位(中島信義)と第7位(大野英夫)に入賞すると云う成績を残した。

その、浅間で4位入賞を果たしたレース専用のSP-11956年に市販化した「モナークSP-1」 として発売するが、世の中の景気が未だ好転せず、またオートバイが町工場で組み立てて販売する、いわゆる「アッセンブル工場」の時代も終わっており、モナークは性能面では劣っていなかったものの、経営面で成り立たずその後まもなく閉鎖となった。


 

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