新明和工業(株)は、兵庫県宝塚市に本社をおく、航空機関連事業や特装車事業、産業機器等の製造を行うメーカーである。
元日本海軍士官の中島知久平が1917年(大正6年)に
設立した「飛行機研究所」に対して、川西財閥の創業者川西清兵衛が経営に参画し、会社名を「日本飛行機製作所」としたが、その後中島と川西が対立し中島が同社を全て買収することで決着する。
(この会社は後の中島飛行機となる。)
川西精兵は、1920年(大正9年)に次男の龍三を経営者として「川西機械製作所」を設立し、繊維機械や飛行機の生産を開始した。
これが新明和興業の始まりである。川西機械製作所は主に繊維機械の生産を行っていたが、かつて飛行機研究所に従事した技術者達の熱意によって飛行機部が設立され、独自に航空機の設計、製作を行った。
1923年(大正12年)には、国内3番目の商業航空会社として「日本航空(株)」(現在の日本航空(JAL)とは別の会社)を設立し、民間航空による輸送事業にも貢献した。
1928年(昭和3年)に同社の飛行機製造部門が独立し
、「川西航空機(株)」(後の新明和工業)を設立し、紫電、紫電改、二式飛行艇など日本の航空史に名を残す数々の名機を開発した。
しかし、1945年(昭和20年)の終戦に伴い、GHQの指令によって航空機の製造
、所有、運行が一切禁止され、これらに従事する組織も解散させたれることになった。
このため、創業者の川西は航空機製造で培った技術を生かして事業転換を図り、そのひとつとしてオートバイ用エンジン(自転車用原動機)の開発に着手する。
終戦の翌年である1946年(昭和21年)2月にはエンジンの開発に着手しこの年の11月に試作車が完成、
、1947年(昭和22年)7月にはクラッチ付きエンジン、1948年(昭和23年)
には4ストローク142ccサイドバルブエンジンを開発、翌年これに「ポインター・スーパー」と名付け量産を開始した。
当時はエンジンのみを製作しアッセンブリーを行うメーカーにエンジンを卸すという事業を行っていたが、組み立てをできない代理店などには代理店が用意した車体(自転車)にエンジンを装着して提供することもあった。
1949年(昭和24年)11月に社名を「新明和興業」に変更すると共に、航空機専業メーカーから社会インフラ整備に事業領域を拡大し、来たるべき高度成長期とともに特装車、産業機器、航空機という3つの事業柱を確立していく。
オートバイ関連の開発・生産事業も拡大され、1951年(昭和26年)
には4ストローク148cc OHVエンジンの試作に成功する。
この頃から急激に高まったオートバイ需要に対して、1953年(昭和28年)
から、いよいよ本格的に車両の生産を開始する。最初に生産されたのはポインターコメットPC型であったが、この年エンジンだけで月産700台に対して完成車は月産600台と言う台数を記録するほどで、この年以降、ポインター号に代表される新明和のオートバイは、特に関西方面でホンダを凌ぐほどの売れ行きだった。
第2回浅間火山レース(ライト級)に出場したポインターPA
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新明和は、1955年(昭和30年)
に開催された第1回浅間高原レースのライト級に4ストローク単気筒249cc
OHVエンジンを搭載したポインターPAを出場させる。このレースの軽量級(ウルトラ・ライト級)でヤマハをはじめとする2ストロークが好成績を残したことをきっかけとして、新明和もそれまでの4ストロークエンジンから2ストロークエンジンに切り替えていく。2ストロークエンジンは42ストロークエンジンに比べて部品数が少なく構造が簡単で製造コストが安いと言うメリットがあったからだ。
そして1956年(昭和31年)11月に発売したポインターPA-Y型を最後に、全て2ストロークエンジンを搭載する車種だけとなる。
オートバイの売れ行きは顕著であったが、ホンダがスーパーカブを発売すると同時に訪れた第二次モーターサイクル・ブーム時には、新明和は原動機付き自転車(いわゆる50cc未満)の市場には新たな車両を投入しなかった。これは、新明和にとってオートバイは事業の一つに過ぎなかったことに加え、戦時補償の打ち切りによる打撃からようやく回復の目処が立った新明和にとって、新たな資金を調達・投入するリスクを避けたからである。
新明和は、1960年(昭和35年)5月に社名を「新明和工業(株)」に改めるとともに、航空機事業への本格参入を目指すために日立製作所の傘下となる。
そして1962年(昭和37年)2月に日立製作所の伊藤俊雄が2代目社長として就任すると、市場の占有率は高かったものの採算性が悪いオートバイ事業からの撤退を決定する。
これにより、1963年(昭和38年)3月に発売したポインターセニアPSを最後に、モーターサイクル・メーカーとしての幕をとじるのであった。